安江先生の遺してくれた言葉とエピソードはたくさんあります。
これからそんなエピソードをたくさん集めて、
このHPの中に載せてゆきたいと思っています。
どうか、知っていることがありましたら教えてください。
また。記事が間違っていましたらご指摘ください。
昭和30年末頃、先生の住む家には水道が来ていなくて、毎日細い通りを抜けて、水汲みに近所まで行っていました。両手にバケツを持って汲みに行くのですが、汲んだ時はバケツに7割くらいの水が入っていますが、家に着いた時には、バケツの底にほんの少ししか残っていませんでした。不自由な身体だったので、歩くとバケツは前後左右に揺すられて水がほとんどこぼれてしまうのです。それを見た弟子の加納房雄さんが、「先生!そんなことは僕たちがやるから…」とバケツを取ろうとすると、先生は怒って、
「この水運びは、私に与えられた仕事だから手を出さないでくれ!」とガンとして弟子には水を運ばせなかったという。
毎日、不自由な身体で、ほとんどこぼしてしまう水運びの作業を繰り返していました。
先生の気持ちは、困っている人がいたら、何も言わずにやらなければいけない!という先生の教えだったようです。
(この話は故加納房雄さんの話を元にしています)
この当時、家の中まで水道が引かれてなく、先生のアトリエも近所から運んだ水を、台所内の水カメに移して溜めていました。加納さんは、水を飲もうと水カメにひしゃくをを入れようとしました。しかし、慣れているので、ひしゃくをカメに入れる前に、カメの淵をコンコンと叩きます。すると、カメの中のボウフラ達が一気にカメの底に逃げます。それで安心して水が飲めたと言うことです。
(この話は故加納房雄さんの話を元にしています)
平成11年(1999)9月20日に安江先生は瀬戸の里で亡くなりました。その2日後に、告別式が瀬戸の里様のご厚意で、瀬戸の里・広間で行われました。告別式後、中津川斎場で荼毘に付されましたが、直後、突然、大雨が降ってきました。まるで、先生が天に召されるのを待っていたかのような大雨で、斎場にいた人達は一歩も外に出られません。しばらく待って、やっと車まで移動でき、家に帰ってみたら、あちこち大雨で氾濫し、道路は水が溢れて大変な状況でした。こんな大雨は滅多にありませんでした。
(阿部記す)
安江先生が瀬戸の里の入っていた平成10年(1998)。商売をしている女性が「どうしても安江先生に会いたいので、連れて行って欲しい。」と私に言いました。それで、先生の夕食後に伺うことにして、夕方瀬戸の里へ出かけました。
先生はベットの上でニコニコ笑っていました。先生と握手をした瞬間、女性から涙が溢れました。女性は溢れる涙で話になりません。先生はただ優しくニコニコと笑っていました。私は見ていて感動しました。
(阿部記す)
平成9年晩秋。先生が一番好きな季節。画集を編集したメンバー、弟子の人達、取り巻きなどが集まって、阿部の庭で「ごへいの会」を開きました。メンバーは朝から準備し、青空の下、庭にテーブルを並べ、和気藹々の雰囲気です。
テーブルには、焼きたてのごへいもちは勿論、サラダ、漬け物、持ち寄った和菓子、果物、飲み物など、食べ物がいっぱい並んでとても豪華な会となりました。
女性達は、先生そっのけで、自分たちの話に熱中しています。安江先生はそんな女性達の話を黙って聞きながら、とても幸せそうです。真っ青な空の下、木々は赤や黄色に色づき、温かく楽しい時間が流れてゆきました。
安江先生は時たま、好きなごへいの串を取ったり、栗きんとんに手を出したりして、とても楽しそうです。先生にとっても、参加した皆さんにとっても、最高に幸せな一日となりました。
(阿部記す)
弟子の加納さん(現・吉村さん)が、ふとアトリエをのぞくと、そこには食べ頃のおいしそうな葡萄がお皿の上にのっていたという。その葡萄はこれ以上放置したら腐ってしまう寸前のとても良い香りを放っていた。加納さんは「このままではは腐ってしまう」と食べてしまった。これが安江先生に見つかり、「わざわざ、熟すまで置いておいたのになんということをしたんだ!」と小言をもらった。
おいしそうな葡萄を描くために、何日も待っていたのを加納さんが見つけて食べてしまったのでした。
(この話は故加納房雄さんの話を元にしています)
ある弟子が木の絵を描いていると先生曰く「この木はどこから生えているのか。それは地面の土から生えているのだから、地面の土が画けていなくてはならない。」と弟子に言ったという。
(この話は故加納房雄さんの話を元にしています)
弟子が壺を置いて画いていました。本人は結構上手に描けているとご満悦だったのですが、安江先生、壺の絵を見て曰く。「この壺の絵は表だけ描いている。壺には裏面があるのだから裏も画かなくてはならない」と言った。
言われた弟子はどうして良いのか判らなかった。
(この話は故加納房雄さんの話を元にしています)
ある日、先生の盟友で、画家の中川ともさんが、いつものように髪の毛をくしゃくしゃにして、安江先生のアトリエにやって来た。
そして突然大きな声で言った!
「安江さん!哲学とはなんぞや!」
安江先生、すかさず答えた。
「人間です!」
ともさん!笑顔で大喜び…
「その通り…!」
二人のやりとりを聞いていた加納房雄さんは、
お二人は心から信頼しているんだなぁ〜!と感じたという。
(この話は故加納房雄さんの話を元にしています)
安江先生の、赤貧の生活を見た中津川市の職員が、生活保護を受けるように言っても、決して受け付けようとしませんでした。
昭和36年、喫茶店主田中三郎氏の薦めで、初の個展を喫茶「たなか」で開催しました。すると思ったよりも良く売れ、周りの人たちも、弟子達も、これで安江先生も一息つけるだろうと思ったそうです。
しかし、絵が売れたお金が入ると先生は中津川市へ出向き、
「このお金を恵まれない人達へ…」と寄付されたのです。
弟子の人達も、街の人達もあっけに取られたそうですが、この時の行為は先生の遺された言葉に表れていると思います。
「温床の内に しらずしらずのうちに
居座っていた自己を知った
こうした生活のなかから
作品が生まれてくる はずがない」
(この話は故加納房雄さんの話を元にしています)
平成9年(1997)2月11日安江先生の誕生日ですが、本町開館で、安江静二画集・出版記念パーティが開かれました。市長を始め、画家仲間、弟子の人達が集まって盛大な宴でした。先生も、自身が生涯を通して追究して来た集大成の画集ができたので、終始ニコニコしておられました。パーティも終盤となり、ピアノとベースの伴奏で先生の好きだった歌を。会場みんなで歌っていました。ちょうど「雪の降る街を」を歌っているときです。
夕方の窓の外を見ると、大きな雪が降ってきました。参加者みんなが歓声を上げました。
偶然でしょうか。神がかりのような安江先生でしたから、私は偶然とは思っていませんが…。
(阿部記す)
安江先生の最後の展覧会場でのことです。平成7年(1995)9月、個展会場であるヒガシギャラリーの開場は午前10時でした。前日,友人からバラの絵をどうしても欲しいので何とか頼む!と言われ、朝8時頃にヒガシギャラリーへ行きました。すると、まだ入口は閉まっていましたが、すでに2人の方が待っていました。
おそる、おそる聞いてみました。「どの作品をお求めですか?」すると、あのバラの作品だ、とのこと。瞬間がっくり「遅かった〜!」頼まれた友人に売れてしまった旨を話して了解してもらいましたが、いまだに、あの時のバラの絵惜しかったと言われます。
この時の個展は10時にオープンしましたが、午前中にはほとんどの作品が売れてしまうという、すごい人気で、入所していた瀬戸の里の人達も、安江先生のすごさを初めて知り、びっくりしておられました。
展覧会会場では、多勢の人達で一杯でした。皆さん、作品に感動しておられて、涙をを流しながら観ている方も沢山いました。
(阿部記す)
平成10年の秋の話です。昨年開催したごへいの会がとても楽しかったので、今年も先生を呼んで開催しようと朝から準備で頑張っていました。先生を10時半に迎えに行く約束だったので、10時15分に「加納さん!迎えに行かなくていいの?」と私が言いますと、「まだまだ!旨いごへいを先生に食べさせたいので、もう少し…。」と、大きなすり鉢を抱え、ごへいのたれをゴリゴリと摺っていました。10時半近くになり、急いで瀬戸の里へ向かいました。
あわてて迎えに行きましたが、約束の時間を10分程過ぎていました。先生はベットに座っていました。
「先生迎えに来ました!」と加納さん。
先生 「…今日なんやったね!」
「先生、今日はごへいの会やに〜!」と加納さん。
「ん…今日なんやったね!」と、知らないふりの先生!
先生を見ると、お出掛けに備えてきれいなジャージに着替え、ベットのそばには履き物も準備して、完全なピカピカのお出掛けモード! 迎えに行った二人はがっくり!先生はいったん話がこじれると、ガンとして引かないところがありましたので、諦めるしかありませんでした。仕方なく足取り重く帰って来ましたが、張り切って、料理を準備していた女性達からは「どうしてくれるの!」と苦情がいっぱい。加納さんにとって大変な日となりました。
午後から、女性達が先生のところへごへいもちを届けに行くと、大変喜んで食べてくれたという事です。
これが、思い出しても落ち込んでしまう
「今日 なんやったねぇ!」の一件で、その後しばらくの間、私たちの挨拶は「今日!なんやったねぇ!」でした。
(阿部記す)