西川さんご兄弟には、東京西光美術製版勤務当時大変お世話になりました。
兄の西川禎一さんが社長で、弟の和男さんが専務でした。
ご兄弟には大変お世話になりました。
僕が23歳の頃,デザイン学校を出たばかりでしたが、仕事が思わぬところから入って来ていました。
勤め先で知った、ベンチャー光学会社、阿佐ヶ谷の輸出専門の光学会社、写真専門会社のポスター、等々
一つずつキチンと仕事をこなして行けば、あるいは食べて行けたかもしれません。
しかし、ボクにはそんな才覚と商才、根気と根性がありませんでした。
仕事も行かなくなり、自堕落な毎日をおくっていました。
今までに買った美術書などを売って、喰うや喰わずの毎日。体重も減って45kgしかなく、とても痩せていました。
下北沢のアパート代も滞納を重ね、数ヶ月も家賃を払ってませんでした。
そんな苦境のボクを救ってくれたのは、西光美術と言う美術製版会社でした。
当時の営業所は飯田橋にあり、本社・工場と寮は八王子にありました。
ボクは八王子の寮に住まわせてもらい、飯田橋の営業所勤務となりました。
専務は毎日八王子から通っていましたので、車に便乗して飯田橋まで通っていました。
ガリガリにやせたボクを毎日、飲みに連れて行ってくれ、経済の仕組み、手形の役割、会社経営の話など
毎日、居酒屋で飲みながら話をしてくれました。乾いた砂が水を吸うように、専務の話が頭の中に入ってゆきました。
専務は、早稲田大学の経済学部を卒業されていました。
その当時の話は、一杯ありすぎて語り尽くせない程です。
帰りに二人で酔っ払って車で寝てしまい、起きたら多摩川の河原だったり。
朝起きたら、吉祥寺市の、道路のど真ん中。バッテリーは上がってしまって車は全く動かなかったり!
とにかく、周りからはあきれてモノが言えないと、言われるような状態でした。
しかし、専務の仕事にかける情熱は誰にも負けることはありませんでした。
毎日夜遅くまでお客さんと向き合い、強い責任感で仕事に情熱を傾けていました。
僕は毎日、専務と一緒に仕事をし、朝から夜中まで一緒でした。
当時の専務の姿勢からは、学ぶべきモノがいっぱいありました。
早稲田のバンカラ風が良く似合う人でした。
ボクが下北沢のアパートの家賃を貯め込んで、毎月,給料日に返済しているのをみて、
わざわざ、帰りがけにアパートに寄ってくれたり
奥さんが不在だから家に寄っていけとか、
お世話になりっぱなしでした。
兄の西川禎一さんには、
ちょくちょく飲みに誘っていただきましたが、
大変良くして頂きました。
僕たちの結婚の時の仲人を頼みましたが、
快く引き受けていただき、大変感謝に堪えません。
中津川へ帰り、仕事をしていましたが、
心配してお二人で訪れてくれ、一緒にお酒を飲みました。
その後も、旅行へ行ったおりに、よく旅行先の名物を送って頂きました。
感謝、感謝以外の何もありません。
専務には西光美術を辞めて、田舎に引っ込んだ後も、仕事をもちこんで
何度も、何度もお邪魔しましたが、お酒を飲みながら話した記念館の話。
記念館の夢みたいな話が実現に向かっていました。
この記念館が出来たら真っ先に知らせたかった人。
西川和男さんと、兄の西川禎一ご兄弟。
世話になりっぱなし、少しでも義理を返したかったな〜。
そう思うのは、昔の話を重い出すから…